中山 祐次郎(なかやま・ゆうじろう)

外科医|作家|くつした収集家|プロ褒めヤー

目次

福島県郡山市鶴見坦の貸家に住んでいた頃、自宅書斎にて(2020年)

福島県郡山市鶴見坦の貸家に住んでいた頃、自宅書斎にて(2020年)

経歴

中山 祐次郎(なかやま・ゆうじろう)

外科医|作家|くつした収集家|プロ褒めヤー

(短いバージョンの経歴)

外科医・作家。湘南医療大学保健医療学部臨床教授。公衆衛生学修士、医学博士。1980年生。聖光学院中・高卒後2浪を経て、鹿児島大学医学部卒。都立駒込病院で研修後、大腸外科医師として計10年勤務。2017年2月から福島県高野病院院長、総合南東北病院外科医長、京都大学大学院を経て2021年10月から神奈川県茅ヶ崎市の湘南東部総合病院で手術の日々を送る。資格は消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医(大腸)、外科専門医など。モットーは「いつ死んでも後悔するように生きる」。著書は「医者の本音」、小説「泣くな研修医」シリーズなど。Yahoo!ニュース個人では計4回のMost Valuable Article賞を受賞。

三人兄弟の真ん中、兄と妹。鎌倉市にあった針ヶ谷産婦人科で生まれる。出生後は父の転勤の関係で東京都赤羽、静岡県沼津、福岡県福岡市博多(茶山幼稚園在籍)に3年ずつ住み、神奈川県横浜市栄区に来た際に「この家には何年住むの?」と尋ねたことから父が転職を決意、そのまま横浜に定住する。現在はもうつぶれた「ドリームランド」という遊園地にバスで行くのが楽しみであった。

(すごく長いバージョンの経歴)

1980年神奈川県生。神奈川県鎌倉市の母、鹿児島県鹿児島市の父のもと生まれる。二人は大学のインカレ合唱サークルで出会った。母方は学者の家系であり、先祖は熊本県宇土市にある宇土城の典医であったという説と、源義経の弟の誰かであったという説がある。父方は法律家が多かった。

天才的な頭脳を持つ兄の影響で中学受験を決意するも、あまりに憶えが悪いため指導していた父がストレスで胃潰瘍を患う。おそらく兄の兄弟加点のような見えざる力が働き、神奈川県の私立聖光学院中学校に合格。 極安全主義者の父により自転車を禁止(しかしなぜかスケボーは可)されていたため、友人たちと自転車で遠出するときにもひとり走っていた。おかげで足が速くなり、小学校では6年間リレーの選手だった。俊足を活かして中学一年生で陸上部に入るも、Jリーグ開幕とともに興味が移り二年生からサッカー部に転部。そのまま卒業までサッカー部でゴールキーパーをつとめる。 成績は下位であった。220人中190位前後で高校一年生まで進み、高校二年生で理系に進むも最初の試験で理系最下位をマーク。医学部志望と担任(化学、但野先生)に伝えると「中山君、君には無理だと思います」と言われる。文系の兄に数学を教えてもらう日々。聖光時代のあだ名は「ギャグ」「だらしな山」であった。中学生の頃、教科書に出てきた漢詩の邦訳が遠い親戚によるものであり驚いたことがある(「詩経」中国文学者 目加田誠)。

ビジュアル系バンド「CHAOS」は、メンバーの一人の顔が大きく「顔」というあだ名だったことから、当時のビジュアル系の雰囲気を合わせて命名された。メンバーのあだ名はゴミ、顔、剛毛、ババア、ギャグであった。

高校2年時には体育祭の赤組で応援団団長を務めるも、最下位。文化祭では演出パートのリーダーを務めるも、ストレスで当日に腹を壊し下痢になり、案じた母親が替えのズボンを持ってきてくれていた。

聖光学院高等学校を卒業後、やはり大学受験に失敗。授業料免除だったため選んだ代々木ゼミナール横浜校での2浪(医学部進学コース)を経て、やっとこさ父の故郷でもある鹿児島県の鹿児島大学医学部医学科に入学。大学時代はやはりサッカー部でゴールキーパーをやっていた。四年生で庶務代理に就任。スポーツカーに目覚め、一台目は古いトヨタ スープラ、二台目はやはり中古のマツダ RX-7 (FD)に乗っていた。国内B級ライセンスを取得し、大分のサーキットで走ったこともある。2年間は鹿児島に馴染めなかったが、のちに第二の故郷となる。好きな芋焼酎は黒伊佐錦。住んでいた騎射場の家は、のちに書いた小説「泣くな研修医」の主人公の実家「薩州揚屋」のモデルとなる。家の隣にあった「桃象」という飲み屋に入り浸る。どんぐり横丁で飲まぬ日はほとんどなかった。大学四年生のころ同級生15人で一斉に禁煙をし、ただ一人一発で成功した。

都立駒込病院で初期研修後、同院大腸外科医師(非常勤)として合計9年勤務。2年間は病院敷地内の寮(六畳一間、風呂トイレ共同)に住み、白衣のまま寝ることも多かった。最速で専門医を取得することを目標とし、ほぼ実現した。6年目に外科専門医、9年目に内視鏡外科技術認定医(大腸)、10年目に消化器外科専門医。大腸癌治療のメッカである同院(当時、初発大腸癌手術が年間450件ほどで全国10位以内であった)の勤務はとても楽しかったが、このまま同じ病院でずっと勤務していては、技術や診療の力に多様性がなさすぎて危険であると思い、東大かハーバード大学の公衆衛生大学院への進学を検討していた。韓国、サムソンメディカルセンターとアサンメディカルセンターに2週間ずつ短期留学。米国ロサンゼルスのUCLA関連病院であるVA Hospitalの外科に2週間の短期留学。この頃は毎年海外の国際学会で発表をしていた。

2016年12月31日、福島第一原発から19kmに位置する高野病院の院長が火事で亡くなったとのNHKニュースを見る。6日後、Facebookで友人医師が「高野病院にボランティアに来ているが、存続が厳しい」とポストしているのを目にし、「ならば自分が行く」と頭が沸騰する。その晩電話で打診をし、3日後に高野病院を訪問。3週間後の2月1日から院長として赴任することを決める。

元の勤務先上司に相談したところ、ほとんどは「お前の人生だ、行ってこい」と言ってくれたが、上司の一人から「俺はお前を認めない」と言われ落ち込む。失意の中の退職、そして移住、転職であった。赴任が決まると、一斉に新聞、テレビ、ウェブニュースで報道される(毎日新聞ほか)。駒込病院の事務職員から「電話が鳴り止まず迷惑している、すべて先生の携帯電話を伝えます」と怒られる。日テレの「バンキシャ」に密着取材を受ける。

スーツケース一個の引越しで始まった2ヶ月の臨時院長の日記は、幻冬舎Plusというウェブサイトに連載した。ひどい風邪を引くも、当然勤務は休めず苦しい日々であった。

その後、後継の院長が見つかったため福島県郡山市の総合南東北病院に赴任。外科医長として働く。初日に「お前、何しに来たの?」と上司に言われ、医局の後ろ盾がない弱みを痛感する。やや干される経験をする。翌年、京都大学の公衆衛生大学院に進学。2年後の2020年、優秀賞を受賞し卒業、公衆衛生学修士となる。再度総合南東北病院に戻り、ロボット手術の執刀を開始。ロボット学会認定医(国内B級)を取得する。

2021年10月より故郷の神奈川県へ移住、藤沢市に居を構え、茅ヶ崎市の湘南東部総合病院外科で手術の日々を送る。2022年に同院でロボット大腸癌手術を立ち上げ、その経験を活かした医学教科書「ダヴィンチ導入完全マニュアル」を刊行した。

2023年に福島県立医科大学で医学博士(乙種)を取得。論文博士であり、論文はすでに出版済みのこちらを提出したところ査読委員の疫学者に根本的なダメ出しをいただき、元データを一から解析しなおして論文を書き直し提出、審査の結果なんとか博士号をいただいた。この解析・執筆作業中は実は新型コロナ感染症罹患による体調不良で2週間仕事を休んでおり、病床でパソコンを開いての苦しい作業であった。博士になるのは大変だ、と実感。

2020年第一子(男児)、2022年第二子(男児)を得る。子供の名付けポリシーは、中山家に代々伝わるとされる字画占い(ただし画数はしばしば変更される)に合わせつつ、日本人に固有で長い名前とする。季節や時候、干支を盛り込んでいる。ひらがなでもローマ字でも難解で、よほど目立たなければ外国人に覚えられ難い名前とする。

モットーは「いつ死んでも後悔するように生きる」。好きな言葉は「棚からぼたもち」。著書は『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと-若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日』『医者の本音』『がん外科医の本音』『泣くな研修医』シリーズ、『俺たちは神じゃない 麻布中央病院外科』など。2017年に「発信する医師団」を立ち上げ、精力的に医療情報を発信している。連載はヤフーニュースエキスパート、南日本新聞「朝の文箱」など。

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